第119回 『神様からの啓示』

先日、数年ぶりに切符を切られてしまった。

一時停止無視。

罰金七千円也〜。

いやぁ、参った参った。まさかあんな見通しの良いところにパトカー殿が待機しているなんて。いや、見通しが良いから一時停止を無視する輩がいるやろぉとの算段で待機していたのかもしれない。見事に警察の目論見に引っ掛かった輩の一人になってしまった。まぁしかし、モノは考えようで、人様を巻き込むような大事故ではなく、一時停止でまだ良かった。人様の一生を台無しにするような事だけは絶対にしたくない。と、半ば強制的に前向きに捉え、その足で郵便局に行き罰金の支払いを済ませた。

完全に慢心が招いた失敗である。19才から運転を始めて以来今現在に至るまで毎日毎日運転している私にとって、車の運転は屁をこくようなものなのだ。

『お前なぁ、屁をこくのは別に構わんが、慢心はアカンぞ。自重せぇよ。集中せぇよ。あと運転中に鼻毛チェックもアカンぞぉ。』というメッセージを神様仏様が警察官を通して教えてくれたのだろうと思う。

以来、運転をする時はめちゃめちゃ集中する事を心がけているのだが、思わぬ発見が。いや再発見と言うべきか。

運転が楽しいのである。

これは集中する事の功徳である。

『止観の修習』というお釈迦様の教えがある。集中する事の大切さを説いた教えであるが、私は慢心から招いた一時停止無視の失敗から身をもってお釈迦様の教えの意味を体感させて頂いた。

集中をする楽しさを再認識させられた私はそこから更に深掘りしてこういう事を考えた。

例えば、牢獄に入れられているとする。片隅にトイレが設置されているだけの部屋。日の光が射さない真っ暗な部屋。1日の内23時間はその部屋で過ごさなくてはならない。そして1時間だけ外に出て、庭の草むしりをする労働を課せられるとする。1時間の草むしりを終えるとまた真っ暗い部屋で時間が過ぎるのを待つのみ、という人生があるとする。

するとどうだろうか。その人にとってはその1時間の草むしりが楽しみに変わるのではないだろうか。我々が当たり前のように享受している外気の有り難みや日光の偉大さを体感出来るのではないだろうか。

物や情報が溢れている現代。何故人は物や情報に囲まれているのだろう。それは幸せや楽しみを求めているからだろうと思う。しかし、物を得ても、情報を取り入れても一向に満たされない。物や情報が増えるとお釈迦様の真理から遠ざかるからだろう。集中する事の大切さや功徳に気付きにくくなるからだろう。禅僧の『無一物中無尽蔵』とはこの辺の事を捉えた至言ではなかろうか。

慢心から招いた一時停止無視に始まり、屁やら鼻毛が飛び出したかと思いきや、お釈迦様の教えに行き、牢獄に入り、禅僧の言葉で締める、という古代ローマ史に匹敵する一大叙事詩にお付き合いいただきありがとうございました。・・・苦情のお問い合わせは日本大使館まで・・・。

んで、結局お前は何が言いたいんやと。

皆様、安全運転を心がけましょう。

交通規則を遵守しましょう。

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