自己の成長の為、昨年の5月に東京へ移住された元お客さんがおられる。月に2回程メールで近況報告をしてくれ、その度に心を込めて返信をさせて頂いている。移住された当初は相談や悩みが多く、人生相談的な内容の電話もかかってきて、1時間近く話を聞いたり、私なりにアドバイスをしたりといった事もあったが、ここ最近はあまりそういった悲壮な感じはなく、何か吹っ切れたような雰囲気が伝わってくる文面に変わってきている。愛犬の画像と共に送られてくるメールを少し心待ちにしながら『頑張れぇ』とお祈りをさせていただいている。そういう、訓練士とお客さんという枠を超え、人と人としての関係性を築けている事に幸せを感じている。
有難い事に私にはそういう関係を築けているお客さんが多く、事あるごとに色々な方から良くしていただいている。慢心を起こす事なく、精進を続けたい。
先日の事、運転をしている時に道路に飛び出そうとした我が子の首根っこをつかまえて鬼の形相で叱りつけている若いお母さんを見かけ、微笑ましい気分になった。「褒めて教えましょう」「叱ってはだめ」「手を上げてはだめ」とほざく専門家達はそのような母の愛のムチをも否定するのだろうか。
『褒めて教える』
『叱って教える』
そのような言葉に私は強烈な違和感を覚える。何故褒めるや叱るを前提にするのか。しつけとは規律を前提にするはずである。違うか?規律を定め、それを教える信念と情熱があれば、叱るや褒めるは自然な形で現れるはずである。『褒めて教える』などとほざいている人は『私には教育やしつけに関して信念はございませぇん。』と宣言しているようなもんである。
小中高と通して今でも印象に残っているのは厳しい先生やその先生の言葉である。甘ったるい、生徒のご機嫌を伺うような先生の存在は思い出す努力をしないと出てこない。少なくとも私の場合はそうである。信念のある教師に生徒は心を動かされるのだ。その教師の叱責や愛のムチであれば生徒は受け入れるし、自己の成長に繋げようと奮起するのである。
犬の問題行動に悩む方達には、低レベルな専門家達が発する情報に呑まれる事なく、信念を持っていただきたい。信念を持っている人の背中を見て、人は成長する。
犬のしつけもまた然り。