第104回 『追慕』

今日2月12日は愛犬マックスが永眠した日、命日である。

あれから早や一年が過ぎた。マックスを思わない日は一日としてなかった。毎朝お地蔵様に手を合わせ、般若心経を唱える日課を七年間続けているが、その際私淑している偉人哲人の写真を立てている。一年前からその横にマックスの写真も鎮座しているが、偉人達にも遜色なく屹立している。誠に立派な犬である。

人は

死者の魂と真摯に向き合っている時に最も謙虚な気持ちになれる、と感じている。

祈りの力は絶大である。

祈りの功徳は絶対である。

資本主義や物質主義も必要な一面があるとは思う。しかし精神の世界をおざなりにすると取り返しのつかない方向に突き進むような気がしてならない。世界の時事問題がそれを如実に表しているように思う。というか取り返しのつかない方向まっしぐらなのではないか。

一人でも多くの人に祈りの習慣を取り入れてほしい。そうすれば少しは、ほんの少しは正しい方向に舵を切れるかもしれない。

私は毎日尊い死者の魂に励まされ、叱咤され、支えられている。

マックスの命日に記す。

 

第103回 『新年初投稿』

新しい年が始まって早やひと月が経とうとしている。元日から大地震と何とも不吉なスタートを切った2024年である。被災された方々が本当に本当に気の毒で、初詣から帰ってきて30分後に被災されて亡くなられた方のニュースを見て胸が張り裂ける思いがした。天変地異は時間場所関係なく襲ってくるという怖さを再認識させられた。一日も早い復興を切に願います。

私の2024年の仕事始めは2日から散歩代行でスタートした。「先生は正月がないから大変ねぇ。」と飼い主さんから言われたが、もう20年以上正月もほとんどないスケジュールで動いているので何とも思わない。逆に休みボケと無縁の人生を送らせていただき感謝である。それに世の中には盆正月関係なくお仕事をされている方はたくさんおられるのだから、文句を言うと罰が当たるってなもんだ。

本年も私淑している先生方の教えと言葉を支えに、『正しい一秒を積み重ねる』人間になれるよう精進をする所存であります。

第102回 『今年の漢字』

12月に入り、早や半月が過ぎた。もういくつ寝るとお正月である。「年を重ねる度に時の経過が早くなる。」と昔から言われてきたが『真理やな。』と感じている。8月が終了した時点で気付けば大晦日、というのがここ数年の私の実感である。『人生の最小区画である一秒に集中する事』『正しい一秒を積み重ねる事』を自己暗示にかけて努力しているが、実行度合いを自ら省みると赤面モノである。修行が足りん。シュギョウガタリンネヤガワチュウネンオトコである。ヒト科で寝屋川市に棲息中である。

私の2023年を漢字一字で表すなら『別』である。相棒マックスとの別れ、10年以上お世話になった方との別れ、15年以上出張訓練として面倒を見させていただいた犬との別れ、実家の老描との別れ。こう別れが続くと否が応にもふさぎ込みがちになり、考えさせられるものがある。特に相棒マックスと実家の老描との別離は私に大打撃を与えた。マックスも老描も、私が最もしんどかった33才から40才の時期に支えてくれた存在である。彼らのお陰で私は精神を保てていたと言っても過言ではない。その二大巨頭を同じ年に失うとは・・・。『僕たちがいなくてもあなたは大丈夫。』というメッセージなのかどうかは分からないが、とにかくも残された者は前を向いて進むしかない。もしもあの世とやらが実際にあって彼らがそこで待っていてくれるのなら、その世界に行けるように正しく生きるのみである、という思いで毎日を過ごしている。

毎年の事ながら今年もたくさん本を読み、先哲の言葉に救われ、幾多の難局を切り抜ける事が出来た。特に『西郷南州遺訓 雑賀鹿野編 頭山満講話』と『人生と財産 本多静六』の2冊からは多大なる勇気と知恵をいただき、何人も崩す事の出来ない不動の幸福を得る事が出来た。この2冊は今後の私の人生においても常に右に座すること確実である。

読書の力は絶大である。読書の功徳は絶対である。女優の芦田愛菜さんが有名子役にありがちな道を辿らず、いまだに人気を維持し、かつ魅力が増しているのもひとえに読書の力が働いていると見ている。今後、彼女がどのような人生を送られるのか楽しみである。知的で、素晴らしい女性となり、幸せになっていただきたいと思うし、また、そうなると思う。

・・・って。

お前誰やねん!!!と突っ込まれそうなのでこの辺りでやめておく。

とにかく

明るい安村ではなく

今年も終わりである。

今年も一年ありがとうございました。

来年もよろしくお願いいたします。

精進致します。

第101回 『お門違い』

格闘家の朝倉選手が完膚なきまでに惨敗を喫し、SNS界隈を賑わし、ヤフーのトップニュースにも取り上げられ、『一人の格闘家の試合でここまで騒がす事が出来るとは・・・。』と改めて朝倉選手の影響力の大きさを感じた。負けてしまった事は残念だが、彼が抱えている物の多さを思うと致し方なしかと思う。抱えている物が多ければ多い程、エネルギーが分散し、自然一つの物事にかけるエネルギーも弱ってしまう。それは当然努力不足に繋がる。『凡才プラス努力は天才マイナス努力に勝る』である。朝倉選手にはしっかり休養し、またカムバックを果たしていただきたいと思う。

犬のしつけにおいてもエネルギーは非常に重要である。動物は強いエネルギーに従う。私はどの飼い主に対しても『犬にルールを教える為にはエネルギーを整える必要性』を説く。

『強いエネルギー』を誤解している人は非常に多い。スポーツ選手、格闘家、やり手の経営者、見るからに元気ハツラツな人・・・。それらの人達は人間の世界ではエネルギーの高い人になろう。しかしそれらの人達が皆犬のしつけがきっちり出来るのかと言うと決してそうとは言えない。動物が感じるエネルギーと人間が感じるそれとは違うからだ。

『強いエネルギー』とは『眼前に集中する力』である。言い換えれば『行動と意識が完全にリンクしている』状態を言う。その力を養う為には極力文明の利器に頼らない努力だ。故に、原住民族の方達が世界で一番エネルギーの高い人間である。

動物は今を生きている。過去も未来もなく今を生きている。人間の究極の目標を彼らは実に淡々と実行している。言わば我々の師とも言えるのである。その師に対してしつけをするのだから、それはそれは大変な努力を要するのだ。技術やオヤツで事なきを得ようというのはお門違いとさえ思うのだが如何。

第100回 『見極める重要性』

キンモクセイの香りと虫の音に癒され、ベランダにつるされている干し柿に日本の伝統美を感じ、自治会の集会所から聞こえてくるご婦人方の唱歌に国体護持の重要性を再認識される。気付けば10月も終わろうとしている。季節の変わり目、特にこの時期はセンチな気分になりがちであるが、毎日充実し、気力も体力も漲っているからか郷愁を感じる隙間もないぐらい働かせていただいている。

9月の初旬から15才の老犬をお預かりしていたが、先日無事に飼い主さんのもとへお返しする事が出来、ホッとしている。2か月近く何事もなく管理出来た事で安堵安堵である。「助かりましたぁ、ありがとうございましたぁ。」と喜ばれる飼い主さんを見て、『愛犬のお預かりで人様のお役に立つのもいいもんだな。』という気持ちも出てくるが、やはり私の本分はしつけ指導・問題行動改善である。難解な問題を抱えている犬や癖の強い飼い主(失敬)と向き合っている時に最も生きがいを感じる。

私はよく『冷静な心の重要性』を飼い主に説く。はっきり言うがしつけや問題行動改善に技術は不要である。あるに越した事は言うまでもないが、無くても何とでもなる。無くすと困るのは冷静な心である。動物の世界には落ち着きのないボスは存在しない。すぐに不安になるボスは存在しない。転じて人間の世界はどうか。信念のない課長。すぐにイライラする部長。自己保身に走る社長。責任転嫁ばかりする係長。恥ずかしくて目も当てられない。動物には肩書など通用しないのである。冷静な心から発せられるエネルギーによって、従う心が芽生え、規律と運動によって精神が安定し、それらの継続により様々な問題行動は霧消するのである。

現在は情報社会である。誰でも情報を発信できる時代である。それすなわち『取るに足らない情報や薄っぺらい情報』が氾濫しているという事だ。多くの飼い主と向き合っていると情報に溺れている方がいかに多い事かと感じる。

先日もフードアグレッシブに頭を抱えている方から問い合わせがあったので見に行かせていただいたのだが、「フードアグレッシブが凄くて・・・。」と電話口で聞いた時点で『情報洪水の被害者やな・・・。』と感じた。話を伺うとやはりネットの情報を調べてしつけをしていく内にどんどん酷くなってきたとの事。状態はかなり酷く、エサの準備をしているだけで怪しい雰囲気になり、食器を持って近付くと唸り始め、食器を置くか置かないかっていうタイミングで噛みついてくる。実践で大人しくさせる事を飼い主に見せるとポカンとされていたが、メカニズムを説明すると更にポカンである。そりゃそうだろう。洪水に呑まれた方にとっては私の説明はほぼ初耳だろうから。私の考え方ではフードアグレッシブとはパニック障害である。勿論先天性ではなく人間が作った後発性のものである。それを治すには冷静な心が不可欠である。冷静な心の構成要素は『信念』と『勇気』である。技術はおまけだ。

どうか洪水に呑まれる事なく、信念と勇気を確立し、冷静な心を醸成していただきたい。私も生涯をかけて冷静な心を堅持する努力を惜しまない所存である。

第99回 『アオい』 

朝晩がだいぶ涼しく快適に過ごせるようになり、早朝犬と一緒に歩いていると寒いぐらいである。虫の音色も軽やかで『あぁ、秋到来やなぁ。』と喜びと去り行く夏への寂しさを感じながら一日をスタートさせている。いつの頃からか季節の変わり目に少しセンチな気分を感じるようになった。私はよく若く見られるが、来年で46である。もうたいがいのオヤジである。と言っても90代でも現役バリバリの訓練士、というのが一番の夢なのでまだまだ青二才である。『ネヤガワアオニサイオヤジ』である。一応ヒト科である。よろしく。

先日から15才の老犬をお預かりしている。私が独立して2年目の時に3か月程出張訓練で見させていただいた子である。その時にはまさか約10年後にもその犬の世話をしているなんて想像すらしていなかった。出会った当初は気が荒く、すごくエネルギッシュだったのに、今やすっかり老いぼれて、他の犬にオヤツを取られてもうんともすんとも言わなくなった。年月の流れにセンチな気持ちになりながらも「お前も年取ったなぁ」と声をかけながら世話をしていると感謝の気持ちで満たされる。

縁の不思議さを感じながら、マイペースで、真面目に、目の前のやるべき事に打ち込む所存のネヤガワアオニサイオヤジの近況である。

第98回 『ひと夏の・・・。』

連日暑い日が続いているが朝晩はだいぶ過ごし易くなってきた。ツクツクボウシが鳴き始め、赤とんぼが機嫌よさ気に飛び回る。暑さに捉われず、静かな心で周りを見渡せば秋の訪れを感じる事が出来る。時の移ろいに若干の寂しさを感じなくもないが、やはり秋の気配を感じる事は嬉しいものである。

気付けば8月も半ばを過ぎたが相変わらず夏時間のスケジュールで動いている。毎日時間と格闘しながら多くの犬と飼い主さんと向き合っている。私はよく飼い主さんから色々な物を頂く。季節の食べ物や産地の名物、アルコールを始めとした各種飲み物、日用品等様々であるが、先日とある飼い主さんから靴を頂いた。この仕事をして20年以上になるが靴は初めてである。しかもブランド物。ミズノである。見るからに高そうなのでそれとなく値段を聞くとたまげた。ファッションに全く興味のない私が愛用しているノーブランドの靴の約6倍の値段である。目ん玉飛び出るか思た。

頂いたその日に早速履いてみたのだが、履き心地の良さにまたまた目ん玉が飛び出た。底が厚く、地面にしっかりフィットしていて、それでいて軽い。『何じゃこりゃぁぁぁぁ!!!!』である。松田優作化現象である。しかも先に樹脂が入っているので犬につま先を嚙まれても安心である。『ううむ・・・ミズノ恐るべし・・・。』とうなりながらもほくそ笑む。

ブランド物の高い靴は値段に見合う価値がある。という事に今更気付かされた。喜んでいいのか悲しむべきなのかよく分からんが、45才中年男のひと夏の体験であった・・・。

 

第97回 『蝉礼賛』

先月末から夏時間で動いている。昼間の暑い時間を避ける為、午前中は早朝4時過ぎには飼い主さん宅に到着し仕事を開始し9時半には切り上げるようにし、午後は17時頃から始め、終わるのはだいたい20時過ぎ、遅い時は21時近くになる。とても疲れるスケジュールだが、習慣とはエライもんで10年以上やってると当たり前になり、体はすぐに慣れる。先日の事である。その日も20時過ぎに仕事を終え、飼い主に対する指導法を考えながらの帰路、ふと前方に視線を向けると何やら小さい生き物が電灯に照らされ動いている。『何やろう?』と思い近付いてみると何と脱皮したばかりの蝉である。脱皮直後の蝉が真っ白いのにも驚き目を奪われたが、その蝉が真っすぐ木に向かっている姿に深く感動した。一秒も無駄にせず、自分がやるべき事に打ち込む姿勢に美を感じ、無意識の内に私は蝉に向かって合掌していた。他人が私のその姿を見たら奇異の念を抱いたであろうが、そんな事私はどうでもいい。美しいものに畏敬の念を抱く心を持つ事の方が私には価値があると思う。合掌出来る両手がある事に深謝である。

その蝉の姿を瞼に、脳裏に焼き付けながら『あの蝉のように美しく、説得力のある存在になりたい。』と念じながら家路についた次第である。

子供の情操教育の為には虫取りも必要なのかもしれないが、同時に小さな命にも人の心を動かす力があるという事を世の親御さんや教師には教える義務があると思う。

山川草木悉皆成仏。

第96回 『肥料』

実家の老描、愛犬マックス、10年以上お世話になった恩人、15年近く面倒を見させていただいた犬。去年の暮からここ最近にかけて別れが相次いでいる。否が応でも人生を考えさせられる。元々沈思黙考人間である私がさらに磨きがかけられ、常に考え込む事が増えてきている。と書くとまるで私がふさぎ込んでいるかの如くに思われるかもしれないが、実際はそんな事はない。明るい気持ちではないかもしれないが、落ち込んでいるわけではなく、何と言うか、静かな気持ちで物事を考え日々を過ごしている、という感じである。少しの配合で深みが増すコーヒー豆のようには人間の場合は簡単にはいかないが、もう少し時間が経てばここ最近の沈思黙考の時間がうまい具合に焙煎されて人生に還元されていくような予感がしている。人生に還元されるという事は即ち仕事にも還元されるという事でもある。難しい犬のしつけに応用できるようになるのは勿論の事、導き難い飼い主を助けてあげられる力が増すと思う。誤解を恐れずあえて書くが、訓練士の仕事は犬を治す事ではなく、飼い主を治す事である。その為には説得力のある人間になる必要がある。

ここ最近の出来事、沈思黙考の時間は私にとって欠く事の出来ない肥料なのだ。

 

第95回 『皐月雑感』

五月も終わりである。という事はフィラリアの予防薬の投薬期間の開始である。病院によっては四月から飲ませようとする所もあるが、かかりつけの病院がもしそうであれば少し考え直した方が良いかも・・・。商売根性丸出し病院の可能性あり・・・。

10年以上処方してもらっていたマックスの分が今年から無い事で寂しい気持ちがどっと押し寄せてくる。まだまだ私の日常生活のあちこちにマックスは存在している。

先日、酷い噛み癖のあるコッカースパニエルの問い合わせがあったので奈良県まで車を走らせたのであるが、あまりにも景色が変わってなさ過ぎて驚いた。奈良県は私が20代の全てから30代前半を過ごした地であるが、当時のままであった。

新しい物、新しい事、変革によって人の心は動かされるが、古い物、変わらない物によっても人は感動する、という事に思い至る。

そこに何かしら人生の妙味を感じる今日この頃である。