第118回 『見える世界よりも』

ここんとこ爽やかで気持ちの良い天気が続いている。まさに五月晴れである。(4月やけど)。こんな天気の時は何処か旅行をしたくなるが生憎と言うか有難いと言うか毎日毎日仕事があり、私には旅に出る時間がない。行きたいところは山ほどあるが、まぁ、しょうがない。働ける時には目一杯働く。それで充実した気持ちになるのだから私は幸せな人生を送れていると思う。

ちなみに、先程行きたいところは山ほどあると書いたが、旬の万博ではない。断じてない。私はああいうところが大嫌いである。私の中では万博とは『科学の祭典』と定義している。科学は確かに大切ではある。科学の発達によって我々は快適に暮らさせて頂いている。が、これ以上の科学の発達は必要ないと思っている。目に見える世界を大切にするのと同様に、いやそれ以上に目に見えない世界を重んじる心を養い、大切にする必要があると常々感じている。科学の発達と人心の荒廃は比例する。VRの世界が普及すれば人は幸せになれるのか?車が空を飛べば快適な暮らしになるのか?我々庶民が宇宙旅行が出来るようになれば皆んな仲良くなれるのか?

んな訳ない。

毎日毎日多くの飼い主にしつけの指導をさせて頂いているが、ここでも科学の進歩の弊害を感じている。犬が発するサインに気付けない飼い主、犬に規律を教えられない飼い主がその例である。失礼を承知で書かせていただくが、そういう方々は技術やしつけ方云々以前に人間力を磨く努力から始めていただきたい。「じゃあお前はどうなんだ。」とお叱りを受けそうだが勿論私も努力精進をしなくてはならない。共に切磋琢磨である。

文明の力を享受しつつも、なるべく我慢できるところは我慢をする。具体的に言うと、食べ過ぎない、呑み過ぎない、吸わない、冷暖房になるべく頼らない、食品添加物を控える、テレビを見過ぎない(電磁波をなるべく浴びない)・・・等々。

そして、神仏に手を合わせる。

目に見えない世界に合掌する事である。

これらの事を3年続ければ自然と犬とおのれを律する力が身に付き、犬が発するサインに気付けるようになる。

犬の技術やしつけ法は枝葉である。

根っこをしっかり作りましょう。

共に頑張りましょう。

 

第117回 『慕情』

『愛より急ぐものが どこにあったのだろう愛を後回しにして何を急いだのだろう』

中島みゆきがマイブームになっている。1日に1回は必ず聴いている。昔から知っていたし、『良い曲やなぁ。』って思った曲もたくさんある。が、しっかり腰を据えて聴いたのはこの年になって初めてである。猫関連の動画を視聴している時に中島みゆきの曲がおすすめに出てきたのがきっかけで何気にクリックしたのが『慕情』という曲である。冒頭の歌詞で完全にやられてしまい、涙腺崩壊である。

『甘えてはいけない 時に情はない 手離してならぬ筈の何かを間違えるな 振り向く景色はあまりに遠い』

『時代』『地上の星』『悪女』『ファイト』『命の別名』等々名曲は数あれどこの『慕情』は完全に私の心にマッチしてしまった。

慕情とは異性を想う心、というのが一般的であるが私の場合は異性ではなく、同性である。あ、いやいや、人間ではない。犬である。今は亡き相棒マックスの事である。マックスを想う時に湧き上がる感情がそのまんまこの歌詞に表現されていて、最初聴いた時には度肝を抜かれた感じになった。そして涙・涙・涙である。

にしても中島みゆきという歌手はすごい方だ。色々な方達が中島みゆきの曲をカバーしているが、全く響かない。綺麗に上手に歌ってるだけで全く響かない。中島みゆきが歌うと歌詞がズドーンと響き、そして曲の世界の情景が見えてくるのだ。歌唱力とはこういう事なんだろうな。中島みゆきの曲を聴いていると、本来、歌というのはこういう事なんだろうなと再認識させられる。本物は凄いなと唸らせられた次第である。

『もいちどはじめから もしもあなたと歩きだせるなら もいちどはじめから ただあなたに尽くしたい』

もうすぐ

隣にマックスがいない桜の季節がやってくる。

第116回 『熱』

自己の成長の為、昨年の5月に東京へ移住された元お客さんがおられる。月に2回程メールで近況報告をしてくれ、その度に心を込めて返信をさせて頂いている。移住された当初は相談や悩みが多く、人生相談的な内容の電話もかかってきて、1時間近く話を聞いたり、私なりにアドバイスをしたりといった事もあったが、ここ最近はあまりそういった悲壮な感じはなく、何か吹っ切れたような雰囲気が伝わってくる文面に変わってきている。愛犬の画像と共に送られてくるメールを少し心待ちにしながら『頑張れぇ』とお祈りをさせていただいている。そういう、訓練士とお客さんという枠を超え、人と人としての関係性を築けている事に幸せを感じている。

有難い事に私にはそういう関係を築けているお客さんが多く、事あるごとに色々な方から良くしていただいている。慢心を起こす事なく、精進を続けたい。

先日の事、運転をしている時に道路に飛び出そうとした我が子の首根っこをつかまえて鬼の形相で叱りつけている若いお母さんを見かけ、微笑ましい気分になった。「褒めて教えましょう」「叱ってはだめ」「手を上げてはだめ」とほざく専門家達はそのような母の愛のムチをも否定するのだろうか。

『褒めて教える』

『叱って教える』

そのような言葉に私は強烈な違和感を覚える。何故褒めるや叱るを前提にするのか。しつけとは規律を前提にするはずである。違うか?規律を定め、それを教える信念と情熱があれば、叱るや褒めるは自然な形で現れるはずである。『褒めて教える』などとほざいている人は『私には教育やしつけに関して信念はございませぇん。』と宣言しているようなもんである。

小中高と通して今でも印象に残っているのは厳しい先生やその先生の言葉である。甘ったるい、生徒のご機嫌を伺うような先生の存在は思い出す努力をしないと出てこない。少なくとも私の場合はそうである。信念のある教師に生徒は心を動かされるのだ。その教師の叱責や愛のムチであれば生徒は受け入れるし、自己の成長に繋げようと奮起するのである。

犬の問題行動に悩む方達には、低レベルな専門家達が発する情報に呑まれる事なく、信念を持っていただきたい。信念を持っている人の背中を見て、人は成長する。

犬のしつけもまた然り。

第115回 『マックスと梅』

2025年がスタートして早やひと月が過ぎようとしております。去年の下半期から老犬の介護に追われて、年末からの夜鳴きで正月も何もあったもんじゃない生活だったのでいつも以上にバタバタしておりました。その老犬、14日の昼2時半頃に永眠致しました。最後は、睡眠薬の効果もあったんでしょう、眠るように息を引き取り、安らかなお顔で昇天しました。私が開業して2年目からの付き合いの子で、お預かりは2021年の夏から。足かけ16年関わらせて頂いたので、それはそれは思い出が沢山。思い入れも沢山の子です。涙がいっぱいいっぱい流れました。介護の時は苦痛でしんどくてイライラしてばっかりだったけど、全てが終わってから思う事。

あの時間が実はとても大切で貴重な時間やったんやな・・・。

終わってから気付く愚かな私。

解放されてから気付く未熟な私。

「最後にお別れさせて下さい・・・。」と飼い主さんが仰ったので、見に来ていただきました。

「最後までこんなに綺麗にしていただいて・・・。」と声を詰まらせながら大粒の涙を流されて・・・。

「先生に出会って、面倒を見ていただいて、本当に本当に良かったです・・・。ありがとうございました・・・。」とのお言葉を頂けた事が自分にとっての財産です。

2、3日は無気力でしたが今は気持ちも切り替えて前を向いております。そして新しい目標も出来ました。老犬ホームを作る事です。コンセプトは『夜鳴きによる苦情の心配のない環境で、のびのびと老犬達に余生を過ごして貰える施設』。施設名も決めてます。

『菊池愛犬スクール併設 老犬ホーム マックスと梅』

夢と情熱を持って

日々歩んでまいります。

本年も宜しくお願い致します。

 

第114回 『年の瀬バタバタ』

3年前からお預かりしている老犬。18才の柴犬。来年19才の婆さん犬。一週間前から痴呆症による夜鳴きが始まってしまった。3ヶ月前から下の世話で2時間に1回起きる、私の睡眠不足生活に拍車がかかってしまっている。『このままでは自分が潰れる・・・。』っていうところまで追い込まれてしまい、26日の木曜日に婆さんを病院へ連れて行き、睡眠薬を処方していただいた。リスキーな薬なので、ちゃんと血液検査をしてからでないと貰えないので私だけ病院へ行き、薬を貰うという訳にはいかないのだ。その日の夜から夜寝る前に飲ませてみたら怖いぐらいにコテンと眠り、翌朝5時までうんともすんとも言わなかったので、私の睡眠不足生活は解消された。ただ、運動が足りてないと薬を飲ませても意識が覚醒し、部屋中をウロウロ、夜鳴きが始まるので、薬を飲ませる前に約3時間散歩したり、広場でノーリードにして自由運動をさせている。この寒い中、3時間である。しかも夜中。しかも年の瀬・・・。薬は効かなくなるので、この先いつまで夜寝てくれるか不安であるが、なるべく先を考えず、今を生きる修行だと思い、日々を過ごしている。

今年も色々な事があり、犬の事や飼い主さんの事や、感動した本の事等書きたいのだが、婆さんの世話に翻弄されて、落ち着いた気分で書けないのでこの辺で終わります。

良いお年を。

また来年も宜しくお願い致します。

第113回 『猶豫狐疑は病毒の第一』

毎日朝と夕方の一日二回お世話をさせて頂いている犬の散歩コースの空き地に黄色い可愛い花が一輪だけ咲いている。いや、咲き残っている。周りのお友達はとっくに散ってしまっているのに、何故かその花だけ自然の摂理に抗うかの如く残っている。その空き地を通る度にその花がまだ残っているかをチェックするのがいつしか日課になっていた。その花を見る度に「おぉ、今日も頑張ってたかぁ、偉いなぁお前はぁ。」などと声を掛けながら心の中で合掌する日々だったのだが、三日前から散り始め、昨日ついに完全に散ってしまった。大往生。正に命を生き切ったという感じで、寂しい気持ちになったがどちらかと言えば感謝の気持ちの方が大きい。こういう事に喜びを感じる事が、人からよく「変わってる」と言われる所以かもしれない・・・。

ここ一二か月の間で、人生観に大きく大きく影響を受ける本に数冊出会い、大変嬉しく、幸せな気持ちになり、ますます道を求める心と道を歩む喜びが大きくなった。人間としても、訓練士としても多くの方々に還元していけるよう精進を重ねていこうと思う今日この頃である。

もうすぐ12月。あっという間に年が変わる。

うかうかしていられない。

第112回 『根本を見る、考える』

キンモクセイの良い香りで気持ちが優しくなる時候である。毎年この時期になるとキンモクセイの香りで幸せな気持ちになる。ところがこの間知人と話していると「キンモクセイは後の掃除が大変やからイヤ。」と言ってるのを聞いて驚いてしまった。『そういう捉え方もあるのか・・・。』人の価値観や考え方は千差万別である、という事を改めて感じた。

四季が無くなってきた、という言葉をメディアや身近な人達からよく耳にするようになったが、『気持ちの良い秋晴れぇぇぇ』と思える日も少なからずあるのも事実。四季を感じる幸せを思う時、『あぁ、自分は日本人やなぁ。』と感慨深くなる。日本に生まれて良かった。日本人で良かった。四季を感じられる地球環境が一日でも長く続く事を切に願う。

今月は数年前に出張訓練を終えた飼い主さんから連絡があり、また少し犬のお世話をさせていただける事になった。神経が細く、少し噛み癖があり、グイグイ引っ張る子。拾い食いの癖もある。ヤンチャで、一般の飼い主さんだと手を焼くタイプ。私はこういうクセの悪い子のお世話をするのが大好きである。『お前相変わらずやなぁ。』と思いながら楽しくしつけをさせていただいている。何よりこうしてまたお声がけをして頂ける事に喜びと感謝である。私が理想とする飼い主と訓練士の関係性である。

散歩の問題行動はいくつかある。引っ張る、犬や人や自転車やバイク等に吠える、飛びかかる、拾い食いをする、等が代表的なところかな。それらの問題行動を治す際、問題行動を細分化してはいけない。全て根本は同じだからだ。根本とは何か。

『前を歩かさない』

ただこれだけである。前を歩かさない事を習慣化するまで徹底すれば散歩の問題行動の90%は消える。残りの10%は一工夫をして部分的に対処する。大事なのは習慣化するまで徹底する事。難しい事を1、2回やって完了、ではなく、シンプルな事を習慣になるまで続ける事、なのだ。後者の方が難しいのは言うまでもない。続ける事は努力する事。しつけは技術ではなく努力である。

という事を飼い主に伝えるのが非常に難しい。キンモクセイではないが、価値観や考え方の多様性の弊害である。

説得力のある人間になり、説得力のある人間であり続ける精進を重ねるしかない。

ま、ボチボチいきますわ。

 

第110回 『止観の修習』 

ここ最近は老犬の世話で疲れている。時間とエネルギーのほとんどを持っていかれている。寝不足だし、熱中症になりかけるし、とある飼い主さんから『疲れた顔してるね。」と言われる始末・・・。

独立した翌年からの付き合いをさせていただいている飼い主さんの犬で今年で18才になる婆さん犬である。飼い主さん宅で飼育するのが困難になった為、2021年から私が引き取って世話をしている柴犬婆さんである。食欲はあり、元気もあるのだが、ここ一週間、下の世話が大変な事になってきて、もうクタクタである。小便も大便もひっきりなしに出る。獣医さん曰く、後ろ足の筋肉の衰えにより、膀胱をコントロールするのが困難になってしまったようだ。最初の頃は部屋中に新聞紙を敷き詰めて汚す度に取り換えてたのだが、一日で大きいサイズのごみ袋二袋が汚れた新聞紙で一杯になってしまい、掃除も大変で埒が明かないと判断し、今は新聞紙の上にペットシーツを敷き詰める作戦に切り替えている。掃除も少し楽になり、ストレスも軽減したので当分の間はこれでいけそうであるが、これがこの先どこまで続くのかと思うと憂鬱になる。

老々介護の果てに・・・という悲しいニュースをよく耳にするが、気持ちはすごく分かる。長生きするのも考えモンだ。健やかに老いる事の重要性を痛切に感じる。

『今』に意識をむける精進をし、少しでも明るい方へ気持ちを持っていこうと思う今日この頃である。

熱中症にもご用心。

 

第109回 『蝉と五輪と私』 

連日の猛暑である。元気なのは蝉とオリンピック選手ぐらいなんじゃないか、というぐらいの暑さである。蝉とオリンピック。今月の私の印象に残るワードである。まずオリンピック。先日開幕され、楽しみにしてた方もおられると思うが、私は開幕する三日前に知人との会話で初めて知った。「え、そうなん???」いやぁ、びっくりしましたね。いくら興味がないとは言えオリンピックが開催される事を知らなかったとは・・・。もう少し世間の話題を日々の生活に取り入れた方がいいかも・・・。

それから蝉。私にとってはオリンピックなんかより(選手の皆様ごめんなさい)よっぽどか大事である。先日の事、車から降りた時に弱り果てた蝉が仰向けの状態で足を前後左右に力なく動かしていた場面に出くわした。その哀れな蝉を見た私は『最後ぐらいはせめて土の上で・・・。』と思い、つかもうと体に触れた瞬間「ジジジジジジジジ!!!!!!!」とけたたましく鳴きながら(?)空高く舞い上がり彼方に飛び去っていったのである。残された私はビックリするやら唖然とするやらで茫然自失の体である。今の今まで瀕死の状態だったのに・・・。まるで最後の最後まで力を振り絞って生命を謳歌するかのような姿に胸を打たれてしまった。

金メダルを獲ったオリンピック選手が日本国旗を見上げながら君が代が流れる光景も感動モンだが、小さな命が見せるワンシーンにも金メダル級の価値があると思う。大切なのはそのワンシーンに気付くアンテナを立ててるかどうかだろう。

何才になっても小さな命が織りなす感動に気付けるよう、精進を重ねたい。

頑張れニッポン!